曖昧な世界

最近とみに目が悪くなってきて、メガネなしだとあまり物が見えなくなってきた。
(近眼)
これはやっぱり原稿のせいだと思う。あとオタク化。いまさらだけど
 
メガネをつけずに見る世界は、輪郭がぼやけていて、現実感が薄れていく。
虚構との境界が曖昧になって、もしかしてこれは夢なのではないかと現実逃避、本当にギリギリの境界を歩いているようだ。
最近読み始めた「戯言シリーズ」が相当僕の心を萎えさせている。
話は面白いし、キャラも強いからまったく飽きないのだけれど
主人公の「いーちゃん」のあのひねくれっぷり。
なんとも、読んでいて自分のそういう部分が明るみに晒されているようで、自分の暗部を直視するよに、羞恥心を含む嫌悪感みたいな、そういうものをひどく感じてしまう。
 
ライトノベルの登場人物の持つ特殊能力や人格に自分を投影してしまう。
そんなガキの抱く 「自分の持つ無限の可能性」 みたいなものを、もう捨てたつもりでいてもやっぱり持っている自分がいる。
「いつか特殊能力が目覚めるんじゃないか」
そんなことをやっぱり考えてしまうガキ。
電車の窓に映る自分を見て、やはり嫌悪する。
 
そんで、今読んでいる「戯言シリーズ
(と言ってもクビシメロマンチストまでしか読み終わっていないので登場人物が「最期」どうなっているかは知りません)
いーちゃんの世捨て人、というか世界に無関心?なんつーか傍観者であろうとするその姿勢が僕の理想というのか
今、僕は世界に対してあまり積極的に生きていないので、むしろ無関心かつ消極的に生きているので
クビシメロマンチストにあったけど、鏡を見ているような、そこに自分を投影してしまって「こんなんでいいのかな〜」って自己嫌悪。
いーちゃんのように救いの対象?玖渚友のような容認してくれるかわいい女の子の存在なんかありゃしない僕は、なんつーかやっぱり静かに殺されたい。
 
ブギーポップのMPLSだったか、シェイムフェイスの能力のように、
自分と同様のもの、あるいは自分自身を、傍観する位置や面と向かって見つめてしまうとなんとも恥ずかしさに耐えられなくなる。
例えば街中や駅などでギャアギャア騒いでいる人を見て
「ああいうことやって騒いでるガキは嫌いだ」
というのは転じて
「ああいうことやって騒いでいる自分の姿は考えたくない・・・・・・
ということだと思う。
この場合「考えられない」
じゃなくて「そんなことやってる自分の姿は恥ずかしくて考えたくない」ということだ。
ちなみに僕は同属嫌悪感が強い。
だからあからさまなオタク行為は嫌い。
相手に自分の姿を投影しているのだ。だから自分が許せないことをやられると嫌悪する。それをする自分を。
 
僕にはいーちゃんのように(過去に何があったかは知らないけど)そこまで決定的な致命傷とその背景はない。
家庭に多少問題があって、それが明らかに僕に影響を与えているくらいだ。
僕は、世界を嫌うことを、「鈍感」であることを、「無関心」であることを装っている。
それを纏うことをカッコイイ人間のステータスとして考えている。
今の僕の理想の人間はそういう人間なのだ。
これは「戯言」を読む前から、そんな感じ
サークルを通じて世界のどうしようもなさを知った感がある。自分の持つ「可能性」の限界を感じたのも原因のひとつだ。
そして自分の「世界に対する無意味さ」も。
 
僕は、「世界」っていうのは歴史とかを無視、超越して、現在の絶対的な観測者である自分が中心であると思っている。
なぜならば僕が認識しなければ、僕が生きていなければ、僕の認識する世界は存在しないからである。
読者のいない小説のように、読み手がいなければ、その世界は存在しなくなる。
でも、
観測している、世界を認識している僕は、世界の中心にいるけれども、別に世界を動かしているわけではない。
 
「この物語の主人公は、はたして僕なのだろうか?」
ふとそう思うと、ただ世界を見ているだけでいいのではないだろうかと思ってしまった。
いままで大して生きてはいないが、悪い人生ではないと思う。
それなりに何不自由なく成長してそれなりの学歴コースにも乗っている。
だが、これが何なのか。
生きていくことは、何なのか。
 
人生をひとつの物語のように捉える。
この場合の主人公の僕は、主人公兼唯一の読者である。
どうすればこの物語は面白くなるのか、
そして同時に作者でもある。自ら選択肢を創る。
物語りを創る自分、選択肢を選ぶ自分、そしてそれを読んでいる自分。
過去、現在、未来。
フラグがたつ。選択する自分。
 
>>1
それなんてエロゲ
 
ビバオタク思考
  
あぁ〜
あの時立ったフラグを、っていうか完全ルートフラグだったのに、
断るんじゃなかった・・・
 
女を振ったことを一年たって後悔している男、たぶんそんなオチ