突然サムデイ イン ザ レインにおける視点

ハルヒ史上唯一キョンSOS団から離れ、語り手不在のまま物語が進むテレビ版オリジナルエピソード「サムデイ イン ザ レイン」。
キョン=物語における神の俯瞰視点=読者(=異星人)の的発想から見てみると、
「サムデイ〜」のカメラはキョンがストーブを取りに学校からいなくなると、やたら遠くから見下ろすものが多い。
バスとアップ以上でキャラクターを映す事はなく、カメラはSOS団に近づくことがない。
視点がSOS団から遠い。
下越しや窓越し、固定カメラで物語が進むのはキョンの持つ視点の喪失を意味しているだろう。
団員キョンの視線を喪失したSOS団部外者(読者)の見るSOS団は、なんとも実感がなくてそっけない。
高校時代に、
違う部活動の奴らがはしゃいでいるのを遠くから見て「何をやっとるのじゃあいつらは」とぼやいているみたいだ。
というかそれそのものだろう。
キョンがいなければ読者は部外者でしかなく、物語に関与できない。
物語がキョンによってのみ語られるものだということ再認識する。たぶん。
自分を物語の登場人物に例えるとしたらどんな立場のキャラクターか、
なんて、オタクなら一度は妄想したことがあると思う。
それに似て例えば、
高校の文化祭を卒業後数年してから見に行った時の、
あのなんともいえない郷愁と、そして、疎外感。
自分がもう、この舞台の主人公ではないのだと痛感してしまえる空気。
高校生活の主人公が当時の自分自身であるったということを再認識する瞬間。
そういうものすら暗喩しているのではないかと感じてしまうのは
きっと僕が高校時代を好きだったからなのかも知れない。
細田版「時をかける少女」でも同じように感じたのは、
所々のカットで強調されている「高校生」のリアルな空気を自分のものに変換して感じたから。
あのころはもう遠く、知ってはいるけど戻ることの出来ない場所。
それこそ「げんしけん」をリアルと感じられるのも、今現在同じ舞台に立っているからだろう。
そろそろ「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とかがリアルに感じられようになって、
いつか「島耕作」がリアルになる時がくるのだろう。