ご無沙汰しておりますが、

夏コミが終わってはや2週間。オタクとしてのイベントの直後に一般人としてのイベントが結構目白押しで、まあ、それなりに忙しい空気を味わっていたりしました。
この、日記的に空白の2週間。いや、今年のこの夏休みで(まだ1ヶ月残っているけど)なにか得るものがあったのかなと考えると、果たして「コレダ!」と云えるものがあったのであろうかと自分でも悩んでしまいます。
人の経験や思い出なんていうものは、常にシナプスが繋がっているものではなく、ふとしたときにふっと繋がりふっと思い出す、そんなもののような気もするので、いますぐに「これがすごかった!」と断言できなくても、それはそれで問題ではないような気もしますが、
実際、経験してすぐのことを自分自身に反映できないようでは、その経験をうまく咀嚼しきれていないんだなぁと思っては、自分の能力の低さと押し迫る現実に打ちひしがれております。
 
そんなこんなで迎えている葉月の下旬ですが、これまでにあったことを自己反映させるためにも、それぞれの日付を無視して、今日の日記にすべてをダラダラと書き下そうかと思っているので、
僕の日記を読もうとしている稀有な友人や、あるいはレッドデータブッククラスの読者様がいるのならば、少しだけ、少しかな、お付き合いください。
こういう、ただただ文章の羅列のみを目的としている日記は、少しばかしエゴイスティックに、読み易さを無視して、適当な改行で構成させてもらいます。
 
文章の構成といえば、「ダヴィンチ」の今月号の特集はデザイナーの祖父江慎さんでしたね。
最近知った人物なのですが、タイミングよくダヴィンチで特集されるなんて、メディアにいいように情報操作されているみたいであんまりうれしいことだとは感じないのですが、自分が興味を持った人が大々的に注目されるって言うのはなんともいえないものですね。
といっても、僕が祖父江さんを知ったのなんて本当につい最近で、しかも齧る程度で、もっと以前から祖父江さんは注目されていますから、僕のいうことなんてにわかファンの自慢話で、それこそ痛々しいものでしょう。
 
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夏コミが終わった翌日は、サークルの所属する連合が毎年行っている、隔年で開催地が関東、関西と交互に替わる東西の交友連合の交流戦の開催日で、今年は関東での開催、そして開催場所は自宅からすぐ近くの市民コートなので、わざわざ遠くから朝早く出向いてくる友人の足を休めるために、否応がなしに(断れるけどその選択は友情的にきつい)自宅を宿として提供しなければいけなく、
夏の聖戦直後で、本来最も隠すべき「同人誌」という、オタクの中でも見つかったらかなりまずいものが最も露出してしまう状況の自室に友人を入れられるわけがなく、しかも宿泊する3人のうち2人は女だし、有明から帰ったその日のうちに部屋を一生懸命掃除したのですが、同人誌以前に、百の桁を優に超える量のマンガさん達がそう簡単に物の影に隠れることはなく、お情け程度に詰め込まれた4箱のダンボールが、引越し直後の、新配置待ちの荷物のように部屋に詰まれ、逆に怪しい雰囲気を醸し出すというなんともスリリングな状況に陥ってしまったわけなのですが、
なんと良識のある友人であることか、僕が自室への侵入を全くといっていいほどシャットアウトし、部屋に入ろうとする雰囲気も全く作らなかったこともあいまってか、2人の女お友達は僕の自室を侵すような行為を全くせず、無事にお泊り会というイベントを乗り越えることができたのはまさに奇跡であったのではないかと思われます。もう一人泊まっていた男友人は、すでに僕の趣味を知っており、尚且つどちらかといえばオタク側の人間だったので問題なく自室に通し、加えて彼は勝手にそこら辺に転がっているマンガ(ガンスリ、青くび大根、失踪日記、etc…)を読み漁っておりました。
サークルの大会も大会として無事終了し、「案ずるより産むが易し」とはよくいったもので、僕の逸脱したオタク趣味が大々的に暴露してしまうこともなく緊張の3日間を乗り越えることができました。
大会の記憶よりも、友達と近くの田んぼの真ん中の砂利道で行った花火や、天候不順で延期して(夏コミの帰りにそのまま)数年ぶりに見ることができた地元の花火大会のほうが強く印象に残っています。7月下旬の夏祭りや8月の花火大会など、昔から行われている大規模な季節の行事が地元にあることが、今まで当たり前のようにこなしてきたイベントですが、どれほど素晴らしいことであるかということか、20数年生きて生きてやっと気がつきました。伝統の素晴らしさというものをちょっと考えてみたりして、未来へ繋げていくことの大切さと、現在僕たちがその大切さに気づくべきであることを再認識しました。
まぁ伝統伝統といっても、そこら辺フレキシブルに現代的にアレンジされるべきところもあるでしょうが、なんというか典型的なお祭りをじっくりと知っている自分に少し優越感を持ちました。なにしろうちに泊まりに来た友人たちは、熊谷程度の夜空で「こんなに星が見えるんなんてっ!」と大喜びしているレベルで、もっと山奥に行けば洒落にならんほど空が綺麗だということですら知らないような現代っ子っぷりを呈していて、僕はちょっと彼らに失望したような感じのため息をついたりしていました。
まぁ「隣の家の芝生は青く見える」といったような、他人の置かれている環境っていうのは魅力的に見えるものですよね。大きな夏祭りが開催されて、夜空がそれなりに綺麗な地元の僕は、コンビニやレンタルショップが徒歩数分圏内に当たり前に存在する都内の環境に少し憧れていたりするのでおあいこです。
 
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大会が終わって友人が去り、一息ついた翌々日には、経営難が深刻な地元ボーイスカウトの数年ぶりの夏季キャンプに参加しました。2泊3日で、その上かなりユルユルな予定のキャンプで、荷物も普段使っている25㍑のバックパック(そろそろ新しいのが欲しい)に着替え程度をぶち込んで、寝袋とマットを裸で持っていくという、予定だけでなく僕自身もかなりユルユルなテンションで出かけました。
キャンプという非日常の環境に身を置けるということが、どこかで「就職活動の時に使えるネタになるのではないだろうか」という現実的な策略で動いていた僕ですが、経営難を迎えている我が団においては、僕の経験云々よりも、次期指導者の育成という面が非常に強いキャンプで、白羽の矢がビンビンに立ちまくっている僕の世代の団員(3人)にとってはもっと深い意味を持つキャンプとなりました。キャンプファイアーの前で踊りを踊ったりするイベントを任されたり、すぐに実践投入できるように着々と僕らをリーダーとして成長させ、地元のボーイスカウトの安寧を狙っているリーダーの思惑が見え隠れどころか丸見えで、就職活動が成功したならば、ボーイスカウトなどそっちのけで地元を出て行きたい僕にとっては、彼らの期待を裏切るようで(実際裏切るのだが)すごくヘビーなキャンプでもありました。
ボーイスカウトの経営陣がそれぞれ持つ方針や主義の摩擦や、礼儀をわきまえず、ただただやんちゃでウザいだけの馬鹿ガキを甘やかすことしかしないの随伴の過保護な保護者など、今までは与えられたプログラムを消化するだけだったものが、この年になると大人の世界の気持ち悪いほどの薄暗さが透けて見えるようになり、純粋にキャンプを楽しむことができませんでした。
なにしろ叱る事ができない過保護の親を見ていると、マジでブチ切れそうになりました。節度や常識、マナーを軽んじる子どもは、絶対親に問題があると確信しました。そしてそういう親こそ、親以外の環境こそが問題なのだとずうずうしくも言い張るという腹立たしい構造も目の当たりにして、わざわざ群馬の山まで行ったというのに(別に遠くはないけれど)、緑の中でのマイナスイオンをたっぷり浴びたリフレッシュよりも、排気ガスの臭いがするような社会の構造なぞを目の当たりにして家に帰ってきたくはなかったです。
絶対リーダーにはなりたくないのですが(なったとしても活動したくはない)、就職活動前にESや履歴書に「ボーイスカウト副隊長」と書ける可能性とその魅力に誘われて、現金なヤツだとは思いますが、この秋にでもリーダーの講習キャンプにでも参加しようと計画しています。
 
今回のキャンプ、透けて見える人間関係の気持ち悪さを置いておけば、やはり山の中の空気はとても新鮮で、流れる川の周囲の気温はとても冷たくて、木陰はひっそりと涼しく、アスファルトの上では感じることのできない、山の持つ空気を感じることができてとてもよい体験でした。やっぱり山はいいなぁ〜
 
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 そういえば、パソコンがウイルスに感染したこともあって、OSを再インストールしたりしているのですが、どうしても追加内臓HDDがネットワーク上で(BIOSでも)認識されず困っております。これまで取ってきたデジカメの画像や、音楽が大量に入っているデュークボックスHDDなので、中身がかなり重要視(当社比)されているのですが、これまた意外と焦ってはおりません。
あるいは映像(違法の匂いがぷんぷん)が大量に詰まっているHDDであっても、なぜかデジタルな物に対してそこまで執着が沸かないのはなぜでしょうか。心のどこかで複製可能であるということ、ある種の行為によってはすぐに際入手できるという現実を知っているからでしょうか。自分自身あまり即物的な価値観を持っていないと感じるので、こうしたトラブルによってHDDの内容が吹っ飛んじゃった場合、逆にHDDの容量が空くし、ある意味僥倖だなと思ってしまうので、その点自分でも便利な正確だと思います。
 
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 キャンプから帰ってきた翌々日にはサークル全日本の大会に参加する予定が組まれていて、一日爆睡して荷物を準備して、またとんぼのように出かけました。目的地はテニス村の千葉県白子町で、3日間全日程でびっちり試合が組まれているために、夏コミと同様の始発2本目の電車に乗って眠い朝からわざわざ千葉まで行ってきました。
すでに技術向上を大きな目標と捕らえるテニスから、娯楽、やっていて楽しいテニスへとプレイスタイル、捕らえ方すべてが移行した僕にとっては、ガッツリとテニスをして、負けて涙を流す、というのは言い過ぎですがナンセンスに近い感情を抱いてしまうので、サークルで一生懸命練習をしている友人たちが頑張って、練習に出てこない僕のせいで負けたりする、「敗因=オレ」という構造がものすごくキツイものでした。まぁいく前からわかってはいるのですが、なんだかんだでテニスが好きな僕も、「敗因=オレ」の構造を認めてしまうためにやりきれない思いを抱いたりして、どうしようもなくなってしまった僕はいつも逃げ出したくなります。
ゆってしまえば、僕がしっかり練習に参加して、安定した技術を回復し(向上よりも回復のほうが優先だしリアルに見込める)たりすればいいのですが、チームの勝敗や個人の勝敗が自分の肩にかかってきたりするその責任から、逃げ出せるべき理由「だってオレ練習出てないし」をいう腐った魅力に僕は取り付かれてしまっているのです。
自分が何のためにテニスをしているのか見失った去年、いまも完全にそれが見出せないではいますが、試合に勝つことが最優先の競技スポーツから、楽しむことが最優先の娯楽スポーツへとテニスに対する捕らえ方がシフトした僕は、もう競技テニスに対して本気になれることはないのかもしれません。さまざまな捕らえ方が混在するのがサークルだとは思うのですが、何が最優先事項なのかという優先順位の問題においてのほかのサークル会員との温度差が僕にとってはちょっとキツイです。だったらやめればいいじゃないかと言われますし、いわれるのも当然なのですが、ただ、僕はサークルの人間関係に魅了されているし、そこに自分の居場所を見出してしまっているので「切るに切れない」、否、自分が孤立しないためにも「切りたくない」関係としてサークルを考えているのでいつもこういったジレンマを持ち続けなければいけないのだと感じます。
合宿中にキャプテンに「お前はテニスに対して失礼だ」と言われましたが、反射的に「オレは、オレのテニスの捉え方があるから、失礼じゃない」と答えることができたので、やっぱり自分の中での捉え方は確実に確定していると考えられるので、テニスに対する温度差と、それからくる疎外感と焦燥感は今後も抱き続けることを覚悟しなければいけないのでしょう。疎外感、などとぬかしている時点で、ただ自分の居場所を持っていたい、寂しさを感じたくないというエゴイズムがもろに表れていると思います。といってもそれから開放されるであろう現役引退の時も刻一刻と迫ってきているのでもう少しの辛抱です。テニスに対する個人個人の捕らえ方が様々あるということサークルの人たちに知ってもらいたいですが、その捕らえ方を超越して一つの集団として機能するのがサークルなんだし、どっちが折れるべきなのか悩みますが、まぁ、僕はサークル内の癌ですが、あるいは内部から異常を告発したり、鏡や窓として外部から客観的に見た自分たちを内部の人間自身へと伝えることができる存在として僕がサークルに存在すると言うのも一考かなと自己弁護してみたりして、今日もサークルをサボっているわけです。
 
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 そして今日はちょっとだけの予定空白の3連休日ということで、上野の科学博物館でやっている「ふしぎ南極展」を見に行ってきました。夏休みの終末ということもあってかやたら子連れが多く、明日明後日の8月最後の土日にはどのような人出となるのか興味が津々です。いろいろと展示物をじっくり見たり、南極昭和基地とのライブ中継の質問会などを観覧していたら3時間も南極展をブラブラしてしまいました。質問会で、子ども中心のイベントであることが空気だけでわかるにも関わらず、ぱっと見てオタクか鉄ちゃんの太って汗ダラダラの青年が「基地で使われている乗り物は何なんですか?」という質問を子どもそっちのけで必死になってしているのをみて、心が痛みました。司会のお姉さんに「乗り物がすきなんですね〜」と相槌を入れられているあたり、アダルトチルドレンを見た言うか、(趣味や精神構造的に)ほとんど身内のようで、苦笑いしかできませんでした。ええと、博物館や美術館と言うものは、ものすごーく価値のあるものであると最近思い、百聞は一見にしかず、千聞とてまたしかり。そして、百見は一触にしかず。と言うわけでいろいろと教養がつくものであると感じて、今後も興味がある展覧などには足繁く通おうかなと画策し始めているわけです。
様々なことにアンテナを張って、いろいろ貪欲に知識をむさぼったりすることは、現実的な目標から言ってしまえばマスコミ就活に役立てることができればいいなと思っているのですが、それ以外にもよい経験として僕自身の人間性の糧となることができると思うので非常に意味あることだと思います。しかしまあ、その意味ある行為を実生活に反映できるかが、最も重要なことで、冒頭にも書いたように常にシナプスが繋がっているわけではない経験に対して、繋がりやすい状況を作り出すためにも、新しく様々なことに挑戦したり貪欲になったりすべきだと思います。あるいはオーロラなどの雄大な自然現象や各史跡など人工物の到達点を直接目にすることはより意味の深いものであると思います。金を使って得ることで最も意味があることは、何かを知ることだと思うので、その何かを知ることの典型である旅行をするために、金を貯めなければいけません。
バイトをやめて早3ヶ月、あの店の内部事情もどんどん腐って行くいっぽうな気がします。早いとこと定職を見つけたいのですが、就職活動が大変になったりすることを考えると二の足をふんでしまったりします。サークルの後輩に聞いたところ、映画館のバイトが、ただで映画が見れると言うことなので、かなり魅力を感じ、僕もやりたいと感じました。地元の映画館でバイトが募集していればいいのですが。
むむむ